プロフィール

はじめまして。

このブログ、「離島ぐらし」を運営しているいおん@rito_life_com)です。

 

プロフィールページを見に来ていただきありがとうございます。

こんな僕のプロフィールに興味があるなんて、あなたもなかなか変わっていますね。笑

 

 

簡単ですが、生い立ちをお話させていただきます。

飽きたらいつでも「戻る」ボタンを押してくださいね。

 

 

生い立ちと高校卒業まで

 

1986年2月11日、鹿児島の病院で産まれました。

両親が住んでいたのは兵庫県西宮市だったのですが、母が出産のために実家に戻っていたので産まれた病院だけ鹿児島です。

 

その後はずっと兵庫県で過ごしました。

長男として産まれ、妹がいます。

 

子供のころは、毎年夏休みに必ず母親の実家に行っており、一番の楽しみでした。

初めて一人で飛行機に乗ったのが4歳の時。今思えばだいぶ早いですね。

母親の実家はど田舎で何もなかったのですが、川に入って遊んだり畑の手伝いをするのがとても好きでした。

 

 

中学受験をして大阪の中高一貫の私立男子校に進学。

ワンダーフォーゲル部に所属していたので、登山やアウトドアが好きでした。

夏休みや春休みに日本アルプスや屋久島に行く、なかなか高校では珍しい部活生活だったと思います。

 

高校2年生のときには部長に任命され、リーダーという役割に悩む日々が続きます。

後輩や先生に怯えながら部活に行く日もありましたが、その経験もあって自分なりのリーダーシップ論を考えるようになりました。

 

 

笑えなかった大学時代

 

高校時代の経験からリーダーシップに興味を持った僕は、神戸大学の経営学部に進みます。

理由は、その学部にリーダーシップ論を研究している先生がいたからです。

 

先生のゼミに入りたくて、一年浪人して念願の大学に入ることができました。

 

しかし、大学に入ってからが僕の暗黒期でした。

 

周りの学生は、特に理由もなくなんとなく大学が来た人が多かった。

今思えばそんなことはなく、知り合った数人がそうだっただけだったと思います。

 

ただ、当時の僕は周りの学生を「大したことない」と見下し、付き合うに値しないと天狗になっていました。

一人で授業を受けたり、お昼は時間をずらして一人で学食で食べるような学生でした。

サークルやバイトはしていましたが、学校、サークル、バイトを繰り返すだけで終わる毎日でした。

 

ある日、サークルの先輩に言われた言葉がずっと頭に残っています。

 

「お前、笑ってる?」

 

「いや、笑ってますよ。」

そう答えましたが、今思うと確かに全然笑えていませんでした。

 

 

3年生からゼミが始まります。

大学に来た目的でもあるゼミは、どうしても入りたかったところです。

有名な先生だけあって倍率は一番高いゼミでした。

 

書類選考があったのですが、その志願書に書く内容に焦りました。

 

学生時代に頑張ったことを書きなさい

 

就職活動のような質問です。

この質問を見て悩みました。

 

2年間ダラダラと過ごしてしまった僕は、書くことがなかったのです。

 

な、何を書けばいいんや?!

「どうしてもゼミに入りたいんです!」という意思を鉛筆に込めてなんとか志願書を書き上げました。

 

すると、奇跡的にゼミに入ることはできました。

発表のときは受験の結果発表を見るより何倍もドキドキしました。

 

ホッとした気持ちと同時に、あまりにも何もせずに過ごしてしまった2年間を後悔しました

 

 

ゼミのメンバーの顔合わせの日。

当然そんな選考をクリアしてきた人が集まります。

 

このゼミのメンバーに会えたことは、自分にとって大きな財産です。

自分の学生生活とはまったく違う学生生活を過ごしている人ばかりでした。

スタバのバイトリーダー、部活のマネージャー、学生団体を立ち上げている人、友人とBARを開いている人・・・

みんなとてもキラキラして見えました。

 

「このままじゃいけない!」

 

大学3年生からインターンシップや学生団体に積極的に参加することになりました。

1、2年生は周りの大学生を見下して天狗になっていた僕の鼻は、見事にポッキリ折られました。

 

いろんな人に出会い、自分の小ささを知り、周りの人への目が尊敬に変わりました。

「笑ってる?」と言われたこともありましたが、だんだん口角が上がっていくのが分かり、少しずつ笑顔も変わっていくのを感じました。

 

 

 

サプライズを仕事にしたい

 

大学4年生のときに、人生の転機とも言える出来事がありました。

 

京都の鴨川で公開プロポーズを見たのです。

今でこそフラッシュモブやサプライズで公開プロポーズはたまにありますが、当時はとても珍しいものでした。

友人の紹介でたまたま現場を見に行き、感動の瞬間に立ち会いました。

 

なかなか感情を表に出すのが苦手な僕は、普段泣くこともめったにありません。

でも、そのときは自然に涙が流れたのです。

 

自分もこんなことをやれる人になりたい!

 

「サプライズを仕事にする」

それが僕の夢になりました。

 

とはいえ、そのときは入社する会社は決まっていましたので、「まずはそこで社会人としての経験を積もう!」と思い、ITの会社でサラリーマンを始めました。

 

 

就職のタイミングで初めての東京での一人暮らし。

1年目は東京での生活に慣れることに必死でしたが、慣れてきてからは徐々にイベントやセミナーに参加して人脈を増やしていきました。

 

東京で実際にサプライズを仕事にしている人やビジネスをしている人にもたくさん会いました。

相談をして、アドバイスを受けて実際にやってみて、少しずつサラリーマンをしながらでも月に1、2万は稼げるくらいになりました。

 

これは仕事をやめればもっと稼げるんじゃないか?!

 

そう思い、2013年の1月に脱サラしました。

 

 

 

ジェットコースターのような3年間

 

甘かった・・・

 

とにかく甘かった。

 

1、2万円月に稼げるから、会社やめればもっと稼げるかもなんて・・・

月に1、2万円じゃ生活はできないんです。

 

貯金はどんどんなくなっていく。

稼ぎはいつまでたってもない。

 

しかも辞めた会社がそこそこ給料が良かったから住民税がとにかく高い・・・

 

ついに銀行残高が0円になってしまいました。

 

 

泣きました。声をあげて泣きました。

原宿から渋谷に向かう道の途中、人目につかないところでワンワン泣きました。

 

さすがに親に助けを求め、バイトも始めました。

 

自分のやりたいことも分からなくなり、なんのためにやっているのかも分からない。

周りと比較して落ち込み、自信もなくし、家賃や水道代の支払いに終われる日々。

 

なにか行動しないといけないけど、お金は使いたくない。

周りからアドバイスももらうけど、無駄にこだわりだけは強くて「あれはいやだ、これはいやだ。」と方針も定まらない。

悪循環の日々が続きました。

 

 

結果、1年間だけは派遣の仕事をして、最低限の生活費を稼ぎながらやりたいことをやることになりました。

 

このときは大変でした。

派遣は夜勤もあったので、昼に自分のやりたいことをやって夜勤に行き、終わってからまた打ち合わせに行く。

30時間連続で起きているような日が月に何日もありました。

 

でも、同時に手を貸してくれる人も現れ、映像の編集の仕事や結婚式やプロポーズでのフラッシュモブ企画の仕事が少しずつできるようになってきました。

1年後には、派遣をやめても生活費はなんとかなるくらいになっていました。

 

 

 

大阪での生活と左目の病気

 

少しずつ上がり調子になってきていたのかもしれません。

あのまま東京で続けていたら・・・

今でもそう思うことはあります。

 

ちょうどこのタイミングで、実家のことや関西の友人からの誘いがありました。

 

そのとき29歳。

30歳まであと1年。

 

30歳までは好きにやるつもりでしたが、30歳のときにどうなっていたいのか。

その先はどうするのか。

はっきり見えていませんでした。

 

悩んだ結果、大阪に拠点を移すことにしました。

 

まだ東京で確かな基盤ができていたわけではなかったので、「今なら拠点を移しても影響は少ない」と思っていました。

大阪で新たに生活をスタートさせ、もう一度ゼロからの気持ちで再出発したときでした。

 

 

左目が見えなくなりました。

 

誤解されるといけないので先に言っておきます。

今は回復して見えるようになっています。

 

はじめは目ばちこができたような違和感だったのですが、ある日起きると左目が腫れて、まるでカーテンがかかったかのように視界が白くなり、頭が痛く目が開けられない状態でした。

眼科に行くと、大きい病院を紹介され、注射を打って治療することになりました。

 

およそ2週間、太陽の光もまぶしく、パソコンやスマホの画面も見れませんでした。

起きて少し食べて寝る。その繰り返しの日々が続きます。

 

やっと治ってきたかな、と思った矢先です。

 

 

再発。

 

 

また見えなくなり、病院に行き血液検査をして調べることになりました。

 

また2週間、何もできない日々が続きます。

することがなく寝ることもできないので、ベッドの中で目を閉じていろんなことを考えました。

 

 

そのとき強く思いました。

 

「明日死ぬかもしれないんだ」

 

 

結局血液検査でも原因は分からず、医者からは「ストレスじゃない?」と言われました。

 

実家に戻ってきて、ご飯や洗濯は母親がしてる。

ストレスなんてまったくないような生活です。

 

ただ、確かに自分でビジネスをつくっていく中で不安や焦りはありました。

 

 

 

ビジネスを学ぶと世の中の様々な仕組みが分かってきます。

今の資本主義社会に違和感を感じ、ビジネスをすることが世界にとっていいことなのか分からなくなりました。

 

何度も自分を見つめ直しました。

改めて「明日死ぬかもしれないとして、今何がしたい?」と自分に聞いてみたところ、こう返ってきました。

 

島に住みたい。

 

 

最高に楽しかった島暮らし

 

選んだ島は与論島でした。

以前観光で訪れたことがあり、好きな映画の舞台にもなっていたのでもう一度行ってみたいと思っていました。

 

たまたま見つけた就業体験プログラムを使い、1ヶ月半役場のお手伝いをしながら島での生活をすることになりました。

 

島生活がとにかく楽しかった!

もともと鹿児島の田舎が好きだったし、ワンダーフォーゲル部で自然が好きだったので、島の生活は幸せでした。

 

とにかく空が広い。

自転車で走りながら目の前に広がる海。

空の青と海の青と木々の緑に、何度心を奪われたことか。

 

街灯もない道を歩きながら、ひとり音楽を聴いて熱唱していた夜。

見上げれば満点の星空。

 

そしてなにより、親切な島の人々と島独自の文化の面白さにすっかり魅了されてしまいました。

 

いずれは島で生活がしたい。

それが30歳になった僕の新たな夢になりました。

 

一年に一度は島に行って、旅行記を書いていこう。

自分なりのやり方で島に関わっていこう。

 

 

そう思っていた矢先、たまたまご縁で奄美大島に働ける場所が見つかりました。

 

「今来たら、仕事あるけどどうする?」

 

「行きます!」

 

即答でした。

そして2017年1月から奄美大島の名瀬市に移住しました。

 

 

 

やっていることとやりたいこと

 

今、主にやっていることは奄美大島にある予備校のスタッフです。

高校生の大学受験の相談に乗ったり、勉強の質問に答えたりしています。

あとは映像編集の仕事や、大阪にある実家の家業にたまに関わったりしています。

 

「職業はなんですか?」と言われるととても難しいのですが、今チャレンジしているのは月に5万稼げる仕事を複数持つことです。

そんな仕事をつくれる力があれば、どこでも生きていけると思うからです。

 

ブログもそのひとつ。

奄美群島の魅力や人を紹介していきます。

 

カメラ、映像撮影、ドローン空撮ができます。

イベント企画や場づくりが好きです。

人の話を聞くことも得意です。

今までやってきたことを活かしながら島と都会の架け橋になれればいいなと思っています。

 

 

今、時代は大きく変わりつつあると思っています。

どんどん便利になり、テクノロジーはものすごいスピードで進化し、モノは溢れかえる。

一方で社会の歪みは大きくなり、豊かさ、幸せの定義が再び問われる時代になっています。

 

自分自身で「幸せとはなにか?」を問い直し、見つけていく必要があると思っています。

 

島は島なりの暮らしがあり、幸せがあります。

都会では感じられない豊かさがあります。

 

そんな島の生活を、過去の僕みたいに社会の中で息苦しさを感じている人に発信できればと思っています。

そして、気が向いたら島に来てもらい、羽を休めて、人生を見つめ直してもらえれば。

 

 

いつかあなたも、島の風を感じに来てください。